2013年のコラムLinkIcon

201201.JPG

2012年1月

初心にかえって、改めて芸人を志す

年始に初心にかえって社長就任直後に金沢経済新聞のインタビュー( HYPERLINK "http://kanazawa.keizai.biz/column/4/" http://kanazawa.keizai.biz/column/4/)でお話したことが思い出される。
インタビュー中で僕は自分を「芸人」と言っている。
その意味はインタビューを読んでもらえば良いので割愛するが、
最近思うのは芸人は芸人でも「ものまね芸人」ではないかということ。
ものまねをどう捉えるかは人による。けれども僕の解釈では「本物(本人)により正確に似せるのではなく、その特徴(本質)を再現する」ということではないかと思っている。
姿形が似ているというのは「ものまね」ではなく「そっくりさん」である。
ものまねは本物と並べて似ているということよりも、イメージの中にある本物(本人)に似せることが重要なのである(同じことは似顔絵でも言える)。

では僕は誰のものまねをするのかと言うと「自然」である。
何度も何度も主張していることであるが、自然が美しいわけではなく、美しい面もあるという、そういう状況をほんの少しだけ美しい面を強調し、ほんの少しだけ悪い面を隠すことで、よりイメージの中の自然に近い姿をつくる。
それはある意味ではオリジナルを超える作業である。
自然よりも自然らしいという矛盾したような、
しかし本人よりも本人らしい「ものまね」というものは確かにあると思う。
真に似ていると書いて「真似」である。
僕は本物志向だとか、オンリーワンだとか、オリジナル主義に逆行する。
しかし、それは本物軽視ではない。
誰よりも本物について詳しくなくてはいけない。
年末年始のテレビで、ものまね芸人の技術に笑って感激して思いを強めた。
本年もよろしくお願いいたします。

201202.JPG

2012年2月

素材にこだわっても、素材に頼るな。

ある家具職人のおじさんの言葉
「一枚ものの無垢材を贅沢に使ったって、そんなの偉いのはその木材であって作ってる人間の価値なんて全然ないじゃないか。そんなんで仕事しちゃ駄目だよ」
僕もその通りだと思う。
「この植物は大変に珍しいものです」ということを売りにしていたら永続的な仕事は出来ない。みんながそういった貴重なものを欲しがれば、行き着く先は環境破壊しかない。
僕は「ありふれた素材を使って、素晴らしいものをつくる」ことの方がすごいと思う。
「貴重さ」や「珍しさ」といった素材に頼るようなことはしたくない。
そういう意味では派手な仕事よりも地味な仕事の方が高い技術を求められる。

さらっと読まれたかもしれないが、これは世間の常識と真逆のことを言っている。
常識では技術が高くなるほどに価値も高くなるとイメージされている。しかし、実際は高級なものになるほどに、その「技術」と「素材」のバランスは素材の側に偏っていき、技術は必ずしも上がっていかない。
そうやって「より良い素材」を求めて環境から収奪していったし、今でもしている(省エネの開発費を膨大につぎ込むくらいなら、多少技術が劣っても資源を使うだとか)。
近年は環境意識の高まりもあり「育てる」「保護する」という管理も行って延命して、言い訳くらいはするように進化したけれど。

そういった事を踏まえて、僕は貧乏になるということは良いことだと思う。
「(経済的に)貧乏になる」ことは「貧しくなる」事と同じではない。
貧しい金持ちが大勢居ることを僕達は知っているじゃないですか。
貧富の差と豊かさはリンクしない。
それが成熟した社会だと思う。
職人復権である。
人間の技術という資源に枯渇の問題も、伐採の問題もなく無限に開発が出来る。
ようやく「非人間価値」の時代から「人間価値」の時代になる。
それが「素材にこだわっても、素材に頼るな」ということである。
人材も同じで、指導者は「人材選びは真剣に、しかし人材に頼るな」と言う事である。
良い人材なら、ほっといても育つ。駄目なやつは何をしても駄目。
というのは素材に頼っているのと同じじゃないか。
本当に問われているのは指導者の技術(指導力)のはずである。

そうやって何事も自分の側に責任を寄せ付け、自分の成長にしてゆける人が豊かになる時代。責任を追いたくないというのは相手(素材)に頼り、自分自身の存在を軽くして貧しくなる時代。
そんな時代がやってきたよという思想を込めた仕事をしたい。

201203.JPG

2012年3月 part1

日常業務

上を向く姿勢をとると積極的になるという心理効果があるそうです。
スポーツカーは車高が低いため自然上向き姿勢で運転することになり、結果運転もアグレッシブになる。
お花見もみんなで上向きになって、心が浮き足立つ。

反対に心が落ち込んでいるとき
苦しくてたまらないとき
疲れきっているとき
人は段々とうつむいてくる。

だから
「上を向いて歩こう」であり
「見上げてごらん」なのだろう。

下を向いて歩くと小さな花が目にはいる。
呆然と前を向いているだけの目にも緑が見える。
緑の壁は下を向いていた人の目にも入り、自然と上までを見上げさせる。

そして永遠に続くのではないかと錯覚する苦しさを
止まっているのではないかと感じる時間を
季節の変化を通して、ちゃんと進めてくれる。

そう感じてくれる人が居てくれるから
僕たちは仕事ができる。
何かが起こったときにだけでなく、日常業務として
世界を少しでも美しく、明るくしたい。

201203-2.jpg

2012年3月 part2

冬を越えるから、より美しい

他人は笑うかもしれない、
けれども
僕は自分自身の仕事に感動させられるのです。
正確には生命の美しさにですが。

一年前のあの時も東京で、
それから一年経った今日は仙台で、
僕やお客さん、関係者と一緒にトラブルや冬の厳しさを越えて、
やっぱり春が来るんだって事が、
しかも、その控えめな美しさが、

雪ふっても、東北の春

(写真は2012.3.10撮影)

201204.JPG

2012年4月

四緑園と取引するだけで景気が良くなる。

景気は経済用語や経営用語ではない。景色のための用語である。実は「経営」も経済用語ではなかった。水墨画で「経営位置」というのが、その経営である。コンポジションあるいはコンフィギュレーションということだ。
そういう意味では、中国や日本の風景は最初から風景として自立していた。のんべんだらりした風景ではなかったのだ。そして、そのような特定できる風景に、景色としての力としての「景気」がみなぎっていた。(松岡正剛著「山水思想」筑摩書房より)

景気というのは景色の力、すなわち景色から与えられる力であり、
経営するというのは、色々な要素のバランスを取るということ。
そういったバランス感覚はどこから磨かれるのか、
バランスを取る、その人のパフォーマンスを上げる空間とはどのような空間なのか、
生活する/働く空間の景色は実は経営を揺るがす大問題なのである。
マネッジメントみたいな薄っぺらな言葉で考えている人には解らないかもしれない。
でも歴史に学べば、優れたリーダーがどこに都を作るのか、どこに陣地を置くのかといった事に細心の注意を払っていたことは明らかである。
四緑園は緑を使って「生きた景色(活きた景色)」をつくっています。
「生きた景色」が最も景気を良くすると思っています。
しかし管理をしなければその気は乱れます。
もしくは気が滞る。たとえ無生物でも掃除という管理が必要なように。
四緑園はお客さんのところに緑(植物)を届けているのではありません。
景気の調子を整え、スムーズに流れるようにしているのです。

201205.jpg

2012年5月

見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ

最近は各種緑化(屋上、壁面、室内など)どころか、
普通の植栽やお庭までも貧しくなっているように感じます。
エコのためにすだれの代わりだとか、
年中青々していて欲しいとか、花が咲いて欲しいとか、
あげくの果ては果物や野菜を育てましょう・・・そりゃ畑だ。
もはや文化としての緑は不必要なのでしょうか。

実がついたり、花が咲いたりするのは嬉しい。
でも僕はあえて極論としてこう思います。

緑の文化には青々とした葉いらず、花もいらず、実もいらず。

それじゃぁ、一体全体何を文化だと言いたいのか。
「緑化」と「(緑の)文化」はなにが違うのか。
もしくは「風景」と「景色」、はたまた「光景」はなにが違うのか。

僕の想いを代弁するかのような文章が松岡正剛さんの著書「山水思想」にあったので以下に紹介して、ひとつの回答としたい。

言わなければならないことは、このことだ。
 われわれはどこかで蒼然として「枯れること」を救おうとする者なのだ。いやいや、救うだけではなく、それでもなお枯れざるをえないものたちを惜しんだのだ。だからわれわれは、枯れゆくものへの愛着から何かを発しようとしている者なのだ。枯れておしまいなのではなく、枯れてなおはじまるものを感得した。
歌舞伎役者に対して、「あの役者もやっと枯れてきましたね」と評価するのも、こういうところに根差していた。

201206.jpg

2012年6月

四緑園の屋上・壁面緑化コンサルティング

四緑園は既存(他社施工含む)の屋上緑化・壁面緑化の診断・メンテナンスをしています。
また緑化を行っている他社さんへの技術コンサルティング依頼にも対応しています。
その際「四緑園さんの技術提供は詳しく親切ですね」とか
「そんなに教えて良いんですか、太っ腹ですね」と言って頂いています。
弊社としては同業者さんの技術力向上も喜ばしいことだと考えています。
パトリック・ブラン氏との契約も同様で
「なぜ日本での独占契約にしなかったのか」と聞かれることもあります。
ビジネスマインドで考えると、そういった発想が出るのは当然だと思います。
しかし弊社としては緑化の先にある「園芸文化」「植物文化」といったものが、より豊かになることの方が良いと考えているだけです。
弊社は長期的に緑化を美しく維持するという話は当然のこととして
「うるおい」「うつくしさ」「文化」といったことの研究開発を行っています。

「完成度より感性度」

これが弊社の考えです。
そのためには鑑賞する皆様や施主さん自身にも感性度を高めていただかなければいけません。
もっと高い技術の緑化が増えて、みなさんの目が肥える。
そうしていった先にしか弊社の需要が無いことを知っているので
同業者さんや各種研究機関への協力も積極的に行っているのです。

201207.JPG

2012年7月

共に生きるということ

「自然との共生」といったフレーズをよく目にする。
僕はいつもこの言葉と、実際の人々の行動の間になんとも言えない違和感を覚える。
そこで「共生」の意味を辞書で調べた。

1 共に同じ所で生活すること。
2 異種の生物が、相互に作用し合う状態で生活すること。相利共生と片利共生があり、寄生も含めることがある。

共生という言葉の広さが、多様さが違和感のもとだったのかと合点した。
広さや多様さが大きい言葉ほど、使う人やシチュエーションによって意味にズレが生じる。多用だということはブレやすいということ。
「俺には俺のスタイルがあるんだから、俺に合わせろ」というお客さんに合わせて、放置されても平気なくらい丈夫な植物で植栽したって共に同じ所で生きている、すなわち共生に変わりは無い。
でも「自然との共生」という言葉の持っているイメージはもっと深いかかわりを持っているように思う。というより、もっと深く関わろうという意思も含んでいるように僕は思っている。
本当の自然のブレやすさ、脆さ、儚さといったゆらぎ、うつろい。
かっこ良くそこに存在して、どうだ!っていう植物よりも、
自分達が積極的に手を貸さなければ崩れ去るようなバランス。
その中にある美しさ。もしくはそういうゆらめきこそが生きているものの美しさだと思う。
辞書の言葉に戻ろう。
1のただ同じ所に生活するというのはスタイリッシュだが「味気ない共生」である。
僕としては2の相互に作用し合う状態で生活する、言い換えればお互いに関係性を持って生活する。もっと踏み込んで言えば積極的に関係しあって生活するという、面倒ではあるが「愛のある共生」の方が好みである。
人間関係も同じであって、表面的にビジネスライクに仕事するより、常にもっと関係を深めたいという思いで仕事をしたいし、友人だって、恋人だって同じじゃないかと僕は思う。
あくまでも僕は思うって話。

201208.jpg

2012年8月

日本のビジネスは貧しい

企業や地域の経営戦略を考えたり、もっと大きくこれからの日本の産業について考えたりする。
少しでもそれを広めていけたら良いのだけれど、結局自社のイノベーションだけで終わってしまい
もっと経営に悩んでいる人の手伝いが出来ないものかということが最近のテーマ。

できるだけ具体的な提案をしていくことで、少しでも僕の思いを伝えていきたい。
まず言いたいのは「日本のビジネスは貧しい」ということ。
ビジネスが貧しいというのは、なんだか変な感じがする言葉かもしれません。
ようはビジネスがどんどんとドライになってしまい”情緒的に”言い換えると”精神的に”貧しいのである。
ドライになるというときにスカスカになっていく。
美味しかった果実が、その食感を失ってしまうような。でも栄養素は変わっていませんというようなスペックだけで話をする。
そんな貧しさを感じる。
効率化を間違えて”人間がより人間らしくなくなるように”社会が一体となって努力しているように感じる。
例えば僕は昨年度は90泊くらいホテルで宿泊した。
ホテルを選ぶときに価格、設備、立地といったスペックを並べて比較する。
インターネットが無い時は旅行代理店のスタッフと話をして決めていたが、今は誰でも多くの情報から選択ができる。
どのホテルが良いか選ぶ楽しみもあるけれど、基本的には出張(仕事)なのでコストパフォーマンスを重視しなくてはいけない。
でもインターネットを使ってホテルを探している時間コストはどうなんだろう。
ホテルって泊まるだけの場所なんだろうか。もちろんそういったニーズの方が多いのも知っている。
でもやっぱり馴染みのフロントマンがいるホテルの方が出張も少し楽しいと思う。
弊社は空間の質を高めるのが仕事で、質の高い空間で宿泊したいとも思う。
質の高いホテルづくりに協力(仕事)させていただき、そこに宿泊する(お客になる)。
宿泊する(お客になる)から、また相手のことが少しだけよく見えてくる。
スペックだけを比較して、人間味の失われたビジネスの先にあるものは
「ひたすら効率的に働け」という世界。
そこから脱していかなければ日本のビジネスは豊かにならない。

201209.jpg

2012年9月

生き残る中小企業のコミュニケーションデザイン

日本の中小零細企業は六重苦を背負っているといわれます。それは
1.円高、2.過剰な雇用規制、3.高い法人税
4.強い温室効果ガス規制、5.自由貿易協定の遅れ、6.電力供給の不安と今後のコストアップ
このような状況でどうやって生き残るのか。
生き残っている企業はみな何らかの特徴を持っているといいます。
そんななかでよく聞くのが「家族」のような経営。
従業員一人一人が企業への帰属意識が高く、それによって効率が高まっているという。四緑園のお客様にもそんな企業があります。
その企業の社長さんは「社員を家族のように考えている」とおっしゃいます。
けれども会社が成長し、社員数が増えるにつれてその想いが伝わらなくなってきていると感じられたそうです。
そこで社員全員の誕生日にお花を贈ろうと考えられました。
毎月の会議の場で、その月に誕生日を迎える社員さん全員に社長さんの手からお花を渡す。
その瞬間だけでも社員一人一人と向かい合うことができるし、その日のオフィスは花で彩られ、その月が誕生日ではない人も毎月どんな花が来るのかと楽しみなイベントになっているそうです。
ビジネスライクな成果報酬や業績連動という評価制度が行き詰まりを見せる昨今、これからは「心の時代」だといわれます。
「心の時代」には「心の時代」にふさわしい評価:企業と人の関係性のあり方を考えなければ生き残れません。心にカタチがなく数字でも表せない以上はカタチや数字ではなく、「花を贈る・贈られる」「一時の花を一緒に楽しむという経験」は素晴らしいコミュニケーションのあり方(コミュニケーションデザイン)だと思います。
私達はお花を届けてはいるのですが「良いコミュニケーションの素(もと)」をお届けしているのだと想っています。

201210.jpg

2012年10月

時間の堆積物としての緑の壁

建物の建替えのため、京都のひなやさんに設置されている緑の壁を移動した。
最初に動かして欲しいというお話をいただいたとき、
環境が激変するということや移設できるような構造になっていないことから、
新しく作る方がいいのではないかと提案させていただいた。
ひなやの伊豆蔵社長の返答は「この緑の壁は時間をかけて今の姿が出来上がった。
最初に比べて時間を経た風格のようなものも出てきている。
そこまで育てて来たものだから、なんとかなりませんか」ということで、
やってみましょうということになった。

「緑の壁」は「壁面緑化」とは違いますと言っています。
壁面緑化は緑があれば良いのだから、今回のような話であれば移設ではなく、新設となる。
移設したほうが適応しない植物が出たりして緑化が順調に進まない可能性が高いからだ。
緑の壁は壁面緑化ではない。
緑の壁は“物(モノ)”としてというよりも“事(コト)”として提案させていただいている。
緑の壁には「事の集積」言い換えると「物語」「歴史」だとか「時間の堆積」があるのだ。
だから交換できない。移設するしかない。
新しい環境で植物達にも頑張ってもらうしかない。
そういった引越しにまつわるストーリーも時間の堆積に加わっていく。
そうやってお客さんと物語を共有していけることが有難い。

201211.JPG

2012年11月

企業を評価するもの

「四緑園で働きたいのですが」という電話をいただく。
就職活動中の学生さん、園芸関係未経験の方から、東京の有名フラワーショップ、テレビや雑誌でもお馴染みのあの人のところで働いていたという方まで色々である。
四緑園は小さな会社なので、欠員が出たタイミングと合致すると良いのだけれども、それ以外のタイミングでは門戸は限りなく狭くなっている(定員オーバーしていても門戸は閉じません)。ほとんどの場合お断りしなくてはいけないのだけれども、そうした電話をいただくと勇気が出る。
四緑園で働きたいということは、一時的であっても四緑園と生きていきたいということである。特に若い人(新卒者)は未来に生きる人である。
権威も何もなくても未来に生きる人が評価してくれるということは四緑園に未来があるということである。
これはとても大きなことである。
四緑園は未来でも価値があるということである。
それは同時に未来への責任があるのだということを感じさせる。
問合せいただけることに感謝し、また一つでも多くのご期待に応えられる様に成長しなくてはと思う。

201212.jpg

2012年12月

冬のはたけ

11月の長野はもう寒かった。
畑は収穫を終えて綺麗さっぱり何も無い状態になっていた。
こうなってしまうと何を作っていた畑なのかもわからない。
植物の無い畑は冬眠する大地を思わせた。冬眠するということは、春には目覚めるということを意味しても居る。ここが始まりなのかもしれないとも思う。
いつも綺麗に手入れしているわけではなくて、たまたま僕が通る前に綺麗にしただけなのだと思うけれど、その綺麗にされた状態は枯山水よりも美しいんじゃないかとさえ思った。
一雨降れば崩れるこの風景は枯山水より儚い。
儚いということはそれだけ命が短いということ。
風も、日光も刻々と変化している。
その変化しているという移り変わりが自然だと思う。
ほとんどの人が見逃してしまう、その一時現われる姿に美を感じる。
青々とした葉が茂っていないどころか、植物の居ない淋しい風景。
でも青々としていた夏を内包した風景。
冬のある一時しか姿を見せない風景。
今しか会えないから今生きているという、そんな感じ。